創建由緒
本社は元禄6年佐沼大火事で旧記を失った為に勧請年月日を明らかにすることは出来ませんが、「日本地誌提要(にほんちしていよう)」には武烈天皇の御代、あるいは聖武天皇の天平二年の創建にかかるとあります。また、その中には藤原秀衡奉納の経文『金光経全巻』もあったことも神職羽生氏所蔵古文書に記されています。
現在の津島本宮社(北方天形鎮座)は文治5年(1189年)源頼朝が平泉を征討したあとの戦勝満願のお礼参りの後、葛西壱岐守(かさいいきのかみ)に命じて北方村に勧請したと伝えられています。
天正19年(1591年)豊臣秀吉の日本統一に最後の抵抗をした葛西大崎両氏は士民連合して大一揆を起こし佐沼城に篭城しました。
秀吉の命を受けた伊達政宗はこれを包囲したのですが、沼川深田の佐沼水域は難攻不落で、万策尽きた政宗は津島本宮に祈願したところ、惣然白鷺の群れが飛来し、沼の浅瀬に降りたちました。この深沼が浅いと知った政宗は籠城軍を一気に攻め城を落とすことが出来ました。
慶長19年(1614年)政宗は領主津田民部景康に命じて津島神社を天形山より現在地に遷座し、社殿は佐沼城に向かって北向きに建立し、佐沼郷の総鎮守祇園牛頭天皇と称し奉りました。
古くより人々から「ごてんのうさん」と親しみを寄せられ、崇め奉られています。
特に6月祭り(新暦7月)の3日間は、出店や興行小屋が並んで人波が道にあふれ、南部気仙三陸からは漁民大挙して参篭りし、礼詣に玉石を奉納しました。佐沼名物みやげは祇園坊コロ柿型の饅頭で1食1年の疫病除けとして買い帰り、各家の軒下に吊るして悪魔祓いとして神信されました。
御祭神
神武速素盞鳴尊(たけはやすさのおのみこと)
須佐之男命は天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟神で、伊邪那岐神(いざまぎのみこと)が鼻を洗った時に生まれ、海を統治することを命ぜられたが、父の命には従わず泣哭するばかりで政をしようとはしなかった。そのため伊邪那岐神は怒り、根の国に追放を命じた。命は根の国に下るに際し、姉の天照大神に別れを告げるため高天原(たかまがはら)に詣るが、天照大神は、性が激しい命がどうして高天原に上ってくるのか警戒するので、命は決して邪険な気持ちはないと天照大神に誓約し、伊邪那岐神許しを得て高天原にしばらく住む事となったが、生来の暴政が出て乱暴な行為を繰り返した為、天照大神は天岩戸(あめのいわと)に隠れた。高天原の神々は天安河(あまのやすかわ)で会議を開き、命に罪を祓わせたのち追放の刑に処した。命は旅を続けて出雲国に至り、そこで八岐大蛇(をやまたのおろち)を屠り、その尾から出た天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)を天照大神に献上し、八岐大蛇を屠った縁で稲田姫(いなだひめ)を娶り出雲に住むこととなった。
宮司紹介
津島神社宮司 遠藤 諭(えんどう さとる)
当社HPをご覧下さいましてありがとうございます。私は宮司(HP管理者)の遠藤 諭と申します。
私は社家の長男に生まれ、24歳で祖父のあとを継いで当社の神主になりました。地域の皆様と接していると、日々勉強だと痛感いたします。毎日、家族共に社務に励んでおりますので、ご参拝されました際にはお声掛けください。
生年月日 昭和52年12月12日
学 歴 佐沼高校 卒業
國學院大学 卒業
趣 味 書道・サッカー・旅行
竹駒神社
結舎 むすびや
当社境内の一画五種類の木が結び合うように聳え、人々はこれを「縁結びの木」と崇め奉り、古来この木にみくじや絵馬を結ぶ習慣がありました。
当社では、大勢の皆様に諸縁の御神徳をお授りいただきたく願い、縁結びの木の周囲にみくじ掛け、絵馬掛けを建立致しました。
道祖神社
手水舎 てみずや
神さまの前に進むとき、身を清めるための施設です。
水には様々な穢(ケガレ)を祓い清める力があります。日常生活における手を洗い、食事をするのと同じことです。
御神輿社
一年に一度の夏の例祭に巡幸する御神輿が納められた社です。